いっぽくんの思索の栞

日々の実践をふりかえり 思索を深めていきます。

算数|日本語学級担当だけど算数を語ろう|子どもたちは、楽しく学ぶ権利をもっている。

わたしは、いまは、日本語学級で教えています。

日本語学級担当が、なんで算数を語るんだ?

 

 

それは、日本語学級だからこそです。

わたしが日本語学級で教えるようになったのは、つい最近のことです。

そして、それは楽しい毎日です。

 

ただ、わたしが好きなのは、子どもたちが、「先生、ちょっと待って考えさせて・・・」と考え、「先生、わかった!!」と、とってもうれしそうな、満足そうな、幸せな顔をしているのを見たときなのです。

 

毎日の生活のなかで、とくに算数をしているとき、子どもがホワイトボード(うちの学級には、黒板がない・・・)のところにでていって、一生懸命説明してくれます。自分の考えを。

私はそういうとき、基本的にゆっくり聞いています。正しいかどうかもそうですが、自分の思いを真剣に表現する姿をとっても尊く感じるからです。

日本語も自分の言葉も使って、それは一生懸命です。図も使います。ありとあらゆることを駆使して、説明します。

 

このように、子供たちの意欲が表面に出てくる授業をたくさんしたいです。

大げさではありますが、その意欲的に学ぶ姿の中にこそ、子どもの自由な学びが見えるからです。

 

いままで見てきた日本語学級の多くは、翻訳を基礎としてきました。

それも大切でしょう。

自分が言いたいことができたときに、日本語で言えることは、日本で生きる上で大きなスキルです。

ひらがなが書ける、カタカナが書けるも大切でしょう。

 

でも、わたしが見てきた日本語学級では、子どもたちの「言いたい」という意欲はそれほど大切にされていませんでした。「言いたいことは既にある」とみなされているのか、「言いたいことをつくるのは自分の責任」とされているのか、とにかく、先生が「日本語ではこういう」ということを教える。

 

でも、ここで疑問を感じるのです。その子どもたち、どこで考える力を育むのでしょう。

 

わたしは教員になってから、算数の研究会にずっと参加してきました。

そこでは、子どもたちの問題解決力を育むことや思考力を育てることをめざしていました。そこで考えるのです。「算数の時間に、日本語を母国語としない子どもたちが、ただぼーっとしているとしたら、この子たちの考える力は育まれているのか?」と。

 

いままでも、きれいごとを言ってきました。

算数の時間に、試行錯誤することを通して、子どもたちに力をつけてほしい、と。

でも、だとすれば、日本語学級の子どもたちにだって、友だちと共に協力し合って問題を解決する経験を提供しなければいけないと思うのです。

学ぶことの楽しさを、子どもたちに感じさせたいです。

 

海外から日本に来ている子どもたちの将来も、日本の子どもたちと同様に、広い。世界の中で彼らは、たくさんの人と協力し、ときには競い合って生きていく。そのときには、力が必要です。

 

日本人学級の子どもたちを相手に授業をするようになって、いかに自分が「曖昧なままの日本語」に頼って授業をしてきたかを痛感してきました。

子どもは、学ぶことが子ども目線でシンプルに整理されているとき、学ぶこと自体を楽しむことができます。

 

子どもたちは、楽しく学ぶ権利をもっている。わたしは、そう信じています。